「それは、何だ」
柿色の羽織を羽織った忍びは、思わず薬師に声をかけてしまった。
声をかけられたエマは、手のひらから目を外すと、狼に視線を向ける。
何がおかしいのか。彼女は手のひらと彼を見ると、くすりと笑みを浮かべた。
「手のひら、でございます」
2人から渡された独楽は、エマの手のひらにおさまった。それはエマの掌からおおかみへ、独楽はぐるぐる、子供たちに紐づいた。
風雪の中、城下を早足で兵たちが歩いていた。彼らはみな無言で、脚をただ動かしている。
葦名を駆ける風雪は少し季節外れだが、酷くはなかった。見えぬほどに風が強いわけでも、凍てつくほどに雪が冷たくわけでもなかった。
だが、寒い。彼らは無言だったが、その所作が寒さを雄弁に語っていた。
雪深い葦名の民とて、寒いものは寒いのだ。
「…もう……そ…ろ…代か」
風に紛れ、談笑が聞こえてくる。兵たちの脚が速まった。詰め所はすぐそこだ。
「ふー、戻ったぞ。おらたちも入れてくれ」
「おう。はいれはいれ。よしっ。じゃあ、俺たちも行くぞ」
彼らは外に作られた詰め所に戻ると、すぐさま見回りを交代し、火を囲む輪に加わった。だが、この寒さでは交代は近いだろう。
「ふー極楽極楽……うん?」
ふと、兵の一人が空を見上げる。男の目は葦名城の屋根を見つめていた。
「どうした」
「いや……いま、柿が空を飛んでなかったか?」
「柿が空を? 寄鷹衆を、見間違えたんじゃぁねえか」
「それにそんな、奇っ怪なモンが空を飛べば、鷹が寄って落として、いまごろおお騒ぎ」
「そうそう、いくらお前さんでも見間違えだろうさ」
笑いながら飯を進めてくる仲間は言う。当然、そんなものが空を飛べば寄鷹に啄まれ、騒ぎとなる。
彼はその理屈を咀嚼しながらも改めて、城を見つめた。
……風雪の中に、柿は見えない。
「見間違えかなぁ……」
そう呟やくと、目の良い彼は火に身を寄せた。
雪風の中、葦名城の屋根を柿色の何かが駆ける。それは雪風の空を飛び、葦名城の天守へと向かっていた。
「……っ」
彼は中空に躍り出ると、天守の装飾に向け勢いよく鉤縄を投げる。それはパシりと装飾を掴むと、すぐさまに縄が巻かれる。
季節はずれの柿色は勢いよく宙を飛び、天守の間に忍び込んだ。
「……」
皺の濃い顔に柿色の衣と腰の太刀。天守に降り立ったのは柿の怪異ではなく、柿色の衣を羽織った男だった。
どうやら鷹に啄まれはしなかったが、蛇には睨まれていたようだ。
「……」
荒れた果てた天守の間を、男は堂々と歩き出す。男は篭手と臑当を身に着け、腰に太刀を佩いていた。
芯の入った立ち姿に腰の太刀。それだけを見れば、男は侍とも思えた。
だが、違うのだろう。男からは足音がとんとしない。その歩き方は、忍びのものだった
男は下層、御子の間に続く階段の前で立ち止まる。
男は軽くだが、身なりを確認し始めた。
「…………」
無愛想な表情だったが、その顔は不思議と、何かを帯びているようにも見えた。
男は確認を終えると、男なりに足音を出し、階段を一段、また一段と降り始める。そうして男は御子の間に入った
「……」
男の目に御子の間が映る。静かな間には御子が見えず、女がひとりいるだけだった。
風の音のせいだろうか。女は男に気づいていない。
男は御子の間に併設された書庫の壁に耳を向ける。こほ、と埃ぽっい部屋からは咳の声が聞こえた。
御子の所在を察した男は改めて一歩踏み出す。先に女に声をかけようとして、男は止まった
「……?」
男は思わず女に、女の手に視線を向ける。女は手のひらでころころと、何かを遊ばせていた。
「……九郎様」
ふっ、と、男に気づいた女は、手のひらで遊ばせていた何かを仕舞う。彼女は書庫にて読書に勤しむ、男の主に声をかけた。
「ん、何…おお、戻ったか狼!」
「ただいま、戻りました…」
「ご無事で何よりです」
書庫から出てきた童子、御子は男の顔を見ると表情をほころばせた
不死絶ち。御子・九郎の願う、人の世を乱す不死を断つため、葦名を駆け回る忍び・狼。
彼は不死断ちについて調べるため、一度葦名城の御子の間に戻った。
そこには協力者である薬師・エマと、御子がいるためだ。
「……」
狼は薬師に軽く目配せで挨拶をすると、御子様に近況を聞いた。だが、不死断ちについての新たな情報はなかった。
(……不甲斐ない)
狼は手がかりを掴まんと、書庫に戻る御子を見送る。
御子は人の世か葦名のためか、それとも狼に報いるためか、張り切っていた。それを見た狼は、ただただ不甲斐なく、決意を新たにした。
(必ずや、九郎様の願いを叶えなければ)
狼はくるりと振り向くと、天守に続く階段に目を向けた。本来ならば天守から城を下り、狼は再び葦名を駆け巡るのだろう
……だが、狼は視線を薬師に向けた。薬師の様子がいつもと違ったからだ。
彼女は己の手のひらをじっと見つめている。何かが面白いのか、ときおり微笑んでもいた。
……狼は疑問を放っておけず、思わず薬師に近づき、問いかけた。
だが問いかけた理由は、御子の側にいる者……それだけではないのだろう。
「それは、何だ」
声をかけられたエマは、手のひらから目を外すと、狼に視線を向けた。
「? ……ああ、これですか」
何がおかしいのか。彼女は手のひらと彼を見ると、くすりと笑みを浮かべる。
エマは見やすいようにと、手のひらを上に、狼に寄せた。
「手のひら、でございます」
「……違う。懐にしまったものだ」
「あら、ばれていましたか」
エマはそういうと、あっさりと懐を探りだした。もう少し問答を想定していた狼は、拍子抜けで少し驚いた。
「……」
狼はずっと薬師の手にあるものが気になっていた。彼女が懐に仕舞ったそれが、どうしても気になる。
彼はなんともなく、ちらりと見えたそれが何かはわかっていた。だが彼にとって、彼女がそれを持っていることが意外だった。
「こちらです」
エマが持っていた物、それは──
「……独楽、か」
少し小さな独楽がひとつ、エマの手のひらに乗っていた。エマの手のひらで、無骨な独楽は咲いている。
「ふふふ。はい、独楽です」
「九郎様のお役に立つ物はないかと、部屋を掃除していたら、見つけたのです」
「それで思わず、懐に……」
エマは再び懐かしむように、手のひらのコマを見つめる。
独楽はエマの手と比べても小さく、少し歪だった。だが、怪我をしないようにか、角は綺麗に丸く削られいる。
大切に掘られたのだろう。狼はそう思った。
「いい独楽だ」
「……前にお話しした、親切な猿を覚えておいでですか」
「お前に戦場で握り飯をやった猿だな」
いつかエマが語った握り飯を持った猿。うらめしそうに見つめる幼き彼女に、握り飯を与えた親切な猿。
それを狼は覚えていた。
「ええ。その猿が、あるときから彫り物やら何やらを、始めたのです」
「その頃の私は何故彼がそんなに忙しいのか、よく分かりませんでした」
「いえ……本当は分かっていました。彼もまた、使える者。恩だってあるのですから」
「だから強請ってみました。そうしたらほら……」
エマはふたたび手のひらの独楽に目を向けた。独楽はいつの間にか、3つに増えていた。
「幾つも幾つも」
「……これは親切な猿に強請って、掘ってもらった物なのです」
「本当は寂しくて、少し気を引きたかっただけなのですが」
狼は猿の顔を思い浮かべた。器用に庇を操る彼も、こういう時代があったのだと。
「器用な猿だ」
「ええ。親切で器用な猿です」
「エマ殿、何を話されているのですか?」
話し声が聞こえたのだろう。九郎がエマと狼に駆け寄ってきた。
「九郎様、こちらを」
エマは屈むと、九郎に掌から独楽をひとつと、紐を渡した。
「これは……独楽ですか」
九郎の顔が綻ぶ。最後に彼が独楽で遊んだのは何時だろうか。
「はい。九郎様にと、持ってきた物です」
「ですが今は……」
九郎の綻んだ顔はつかの間だった。不死経ちを思い出したのだろう。
だがエマはすかさず続けた。もとより背を押す言葉は幾つか考えていた
「狼殿も、独楽を回したいそうです」
「……」
「……そうなのか、狼」
「勿論で御座います」
「そうか、狼もやりたいのか! …ああ、だが場所はどうしようか。ここだと床が傷ついてしまう」
「大丈夫です」
エマはくすりと笑うと言った。
「そこの床に傷があります」
エマは御子の間の床を指す。よく見ると確かにそこは、小さく窪んでいた。
「それは一心様が、独楽回しで付けたものなのですよ」
「狼殿は独楽を選ぶので、どうぞお先に」
「待っておるぞ狼!」
先に独楽を回し始めた九郎を見つめる狼に、エマは話しかける。
「狼殿先ほど──」
「感謝する」
狼はエマの言葉を遮った。楽しげに笑う九郎に、狼は満足していた。
「はい」
エマも狼の念を受け、それで話を終わらせた。礼は届いている。
「狼殿、これを。これは、あなたの独楽です」
エマは改めて、残り2つとなった手のひらの独楽を、ひとつ狼に渡した。
渡された独楽は他と同じく小さく角が丸かったが、他の独楽と比べ精巧に出来ていた。
「これは……」
「我が師が、貴方の義父に進めたものです」
手の中の独楽を見つめる彼に、エマは語り出した。
「昔、猩々と道玄に貴方の義父が会いに来たことがありました」
「そのとき2人は独楽を彫っていて、話の中、我が師は自分が掘った独楽を1つ取り……貴方にどうかと渡したのです」
「……いらない、とのことでしたが」
「ですからこれは、貴方の独楽なのでしょう」
「そうか……」
狼は独楽を受け取ると、九郎に向かって歩き出だした。九郎は楽しげに独楽を回していた
「御子か……」
独楽で遊ぶ九郎に、狼は思わず誰かを重ねた。エマはそれを見ると、懐から狼の手に1つの独楽と紐を渡した。
「貴方が渡したい方に」
「かたじけない……」
独楽に紐が巻かれ、回転する。独楽回しはずいぶんと久しかったが、よく回っていた。
「柿だ。それと……」
「ああ、いくつか持ってきた」
「少しなら構わん」
幻廊に、独楽の音と笑い声が響き渡る。
エマの掌から渡された独楽は、紐に巻かれぐるぐると回っていた。
「……」
エマの語る話を懐かしんだ男は、仕舞っていた己の持ち独楽を引っ張り出していた。
男は酒を片手に、雪風の中に過去を探す。
『弾いたり!!』
『ハハハ、討ち取られたは!』
『おや、下克上とは勇ましい』
『ふ。縁起でもないよ、梟』
「……ハァー。酒が沁みる」
男はひょいと独楽を握ると、紐を巻き、投げた。
独楽はぐるぐると、回っている。
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